今だから知りたい吉田松陰

第5回 天才少年現る〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:吉田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

藩主の前で子供が「講義」?

スパルタ叔父さんにしごかれた大次郎君は、その後どうなったの?


ちょうどその頃大坂で大塩平八郎の乱、浦賀でモリソン号事件が起きた。この2つの事件は、後年、松陰に大きな影響を与えるんだけど、まだ7歳の大次郎は「孟子」で手一杯だ。スパルタ指導に耐えた甲斐あって、翌年から藩校である明倫館に家学教授見習いとして出勤することになった。

出勤って言うけど、まだ8歳でしょ。それってホントの話?


その翌年、9歳の時にはすでに教授として生徒を指導しているからね。いくら兵学師範の跡継ぎと言っても、異例の早さだ。後見人が側についていたとしても、その年で本当に先生が務まったとは、殆どの人には信じられないだろうね。

おっしゃる通り、信じられないわ。



ところがだ、大次郎が10歳の時、殿様の毛利敬親に召し出されることになった。文武の師範を集めて、どの程度の実力があるのか見定めてやろうという腹だったらしい。しかし、主宰者の「そうせい候」も、目の前に現れた子供を見て、当初はキミと同じように感じただろう。

あはは。お子ちゃまじゃないかってね。それで、大次郎君は何をやったの?

山鹿流の兵学書である『武教全書』の戦法編を、殿様や居並ぶ家臣達の前で、臆することなく堂々と講義した。しかも大人顔負けの論理展開。これには一堂あ然…。

それはそうよね。大人だってお偉方の前じゃビビって、なかなか出来ないわよ。

感心しまくった毛利公は大次郎を絶賛。「天才少年現る!」ということで、大次郎は一日にして萩の有名人になった。

エリートへの道が約束されたようなものね。


その後も毛利公は度々大次郎を呼び出して講義させている。例え相手が子供でも、実力があれば認めて、学ぼうとする。この辺を見ても「そうせい候」の懐の深さを感じるね。しかし、周囲の大人たちは決して大次郎を甘やかさなかった。実父である杉百合之助のもとには評判を聞いた親類縁者が押し寄せたらしいけど、百合之助はそれを喜ぶわけでもなく「今まで以上に励め」とむしろ大次郎を戒めたらしい。

大次郎君は立派な大人に囲まれて育ったのね。うらやましいわ。


折しも、中国ではアヘン戦争が勃発し、欧米列強の脅威が迫っていた。前回話した村田清風の改革もスタートして、維新の立役者となる長州藩の台頭は、ここから始まる。実はその村田清風こそが、大次郎を藩主に引き合わせた仕掛け人と言われているんだ。

っていうことは、大次郎君と清風さんは知り合いだったのね。


清風の甥で、大次郎の養父大助の親友だった山田亦介を通じて知ったんじゃないかな。しかも清風は大変な勉強家だったからね。早くから大次郎の才能を見抜いていたと思うよ。孫のような歳の大次郎に、長州藩の明るい未来を見ていたのかもしれない。

でも大次郎君、勉強ばっかりしていたら頭でっかちにならない?


まぁそこは文武両道だからね。11歳の時には波多野源左衛門に馬術、平岡弥三兵衛に剣術、横地長左衛門に槍を習っている。後に山田亦介が「剣術の腕も凄い」と証言しているから、かなりの遣い手だったんじゃないかな。

ちゃんと体も鍛えていたのね。頭がいいだけで十分だとは思うけど…。


天保13年(1842)、大次郎が満12歳の時にはスパルタ叔父の文之進が後見人になるんだけど、この玉木文之進が松本村の自宅で私塾を開くんだ。これが後に松陰の代名詞ともなる「松下村塾」だ。大次郎は兄と共に、こちらにも通うようになる。

「松下村塾」って、松陰が始めたわけじゃなかったんだ。


そうなんだ。ちなみに、この22年後、既に松陰亡き後の松下村塾に、文之進の教えを乞いたいと、家出までしてやってきた親戚の少年がいた。名前は乃木源三。後の乃木希典だ。

へぇ〜。スパルタ叔父さんは乃木大将の先生でもあったのね。


私塾を開いた翌年、33歳になった文之進の官職は大組証人役。安政3年(1856)の吉田代官を皮切りに各地の代官職を歴任する。安政6年(1859)には郡奉行にまで出世するんだけど、のちに松陰の処刑で役職を剥奪される。

弟子のやったことで責任を取らされたのね。


それだけじゃないんだ。その後文之進は復帰して長州藩のために活躍するんだけど、明治になってから、萩の乱に養子の玉木正誼や門弟が参加したということで、その責任を取って、67歳で先祖の墓前で自害するんだ。

最後まで凄い人よね。ラスト・サムライって感じ。


松陰がのちに「玉木の叔父に叱られた程怖い事はない」と語っているからね。その文之進の指導に応えるように、大次郎14歳の時には藩主親試という公開テストで再び「武教全書」と「孫子」を講義。藩主からご褒美に「七書直解」という中国の兵学書をいただいているんだ。

よっぽど殿様に気に入られてたのね。


それに慢心することなく、大次郎は他の流派も貪欲に吸収しようとする。15歳の時に山田亦介から長沼流兵学を学ぶんだけど、この山田亦介を通じて知った海外の情報が、天才少年・大次郎の目を開かせる。

その海外情報って何よ?



アヘン戦争の顛末だ。大国・清が為す術もなくイギリスに敗れたという事実は、大次郎にとって大きな衝撃だったに違いない。

アヘン戦争で清のジャンク船を攻撃する英国・東洋艦隊(東洋文庫蔵)→

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